ライブラリ内での図書の貸出し・返却の受付や図書の配架、来館者の案内をしています。
また、ボランティア主体で、企画図書やパネルの展示、図書にちなんだ
大阪のまち歩き等を企画・実施しています。
日 時:11月3日(木・祝)14:00~16:00
場 所:大阪市立住まい情報センター3階ホール
講 師:やまだ りよこ(演芸ジャーナリスト、文筆家)
平成28年度のブックトークサロンは、『上方落語家名鑑 第二版』(やまだ りよこ著・2010年出版)を取り上げました。天満天神繁昌亭の開場に合わせて出版した『上方落語家名鑑ぷらす上方噺」(2006年出版)に続いて刊行した『上方落語家名鑑 第二版』は、当時のほとんどの上方落語家を取材し、詳細なデータと共に紹介した一冊。上方落語のあらすじ・解説200本と、CD・DVDの情報も網羅し、特別対談や年表、系図も掲載した、落語ファンのみならず落語ビギナーにも好評を得た本です。
『上方落語家名鑑 第二版』は入り口ですが、「ちょっと知る」ことが「好き」と「理解」につながります。「落語から広がる出会いを通して、大阪の魅力を見つめる」をテーマに、演芸ジャーナリストのやまだりよこさんにご講演いただきました。
■東西の落語の聞き比べで見えてくる大阪らしさ
戦前から戦後にかけて、上方落語界は衰退の一途を辿っていました。五代目笑福亭松鶴らは復興の狼煙をあげて奮闘しますが、その五代目松鶴ら看板が相次いで亡くなる中で、昭和28年には二代目桂春団治も亡くなり、上方落語は滅んだとまで言われます。
昭和22年、のちに四天王とよばれる、六代目笑福亭松鶴・三代目桂米朝・三代目桂春団治・五代目桂文枝が入門、まだまだ若手だった彼らですが、危機を乗り越え上方落語の継承と復興に努めました。
つまり、上方落語というのは、戦後一旦仕切り直され、四天王によって再出発し新たな発展の歴史を刻んだと言えるでしょう。四天王の入門当時は落語家の数は10人もいませんでしたが、今や260人にまで増えまして、戦後からの復興がいかに奇跡的なものだったかを物語っています。 四天王は上方落語の復興の強い使命感を持ち、先人が残した落語を出来るかぎり受け継いで後世に伝え残そうとしました。そのおかげで、上方落語には古きよき形が残され、大阪のにおいや気質がしっかりとこめられています。特に、桂米朝は埋もれた噺をたくさん復活させました。知性と品格と洒落の精神を備えた桂米朝がいなければ、上方落語はどうなっていたかわからないし、今のような繁栄の時代は永久に来なかったかもしれません。
上方落語の特徴として、小机のような「見台」、着物の乱れを隠す「膝隠し」、「小拍子」、にぎやかな「寄席囃子」があげられまして、東京の落語との形式の違いでもあります。また、「笑い」がたくさん盛り込まれていることも特色でしょう。しかし、一番の特徴と言えるのは、古典落語に残る大阪の「船場ことば」でしょう。どこか懐かしく、角が無い、そんな大阪のことばが醸す独特のにおいやニュアンス、会話にひそむ人情、気風、洒落の精神が上方落語たらしめているように思いますし、東京の落語との本質的な違いであるともいえます。
東京の落語の古典の半分以上は上方から移されたものと言われています。行き来がしやすくなった明治の半ばごろから東西の交流は本格的に盛んになり、大量に移されていきました。逆に東京から大阪へ移された噺は少なく、一方的に西から東へ移されました。それは、上方の落語のほうが展開がわかりやすく、笑いも多く、単純に面白かったからではないでしょうか。出囃子も大正期に上方から東京へ移されたものです。
ここで東西の落語の聞き比べをしましょう。
東京に移された噺は、土地の名前、人物、言葉を置き換え、構成を変える等いろいろ手を加えられていますが、その中で元の上方落語から何を省いたか、どこを変えざるを得なかったかをみることで、移すことが出来なかった上方落語の大阪的な本質がみえてくるのではないでしょうか。
○五代目柳家小さん「長屋の花見」・桂米朝「貧乏花見」の聞き比べ
上方の「貧乏花見」が大正期に東京に移されて「長屋の花見」となりましたが、貧乏長屋の連中が花見に行くという展開は同じです。
まず、「長屋の花見」では長屋の貧乏ぶりを語るくだりがありますが、「貧乏花見」ではまくらで語られ、本編には入っていません。
「長屋の花見」での花見は、大家が主導し、店子はそれに従ってあっさり決まります。これは東京では武家社会が根付き、下のものは上のものに従う、従順に言うことを聞くということが定着しているからではないでしょうか。東京流の移し替えとして自然な展開といえます。
一方、上方落語では、家主や目上の人は出てきません。目上の者に指図されずにあくまで長屋の連中が主体となって自主的に花見の話がまとまるというのが、いかにも大阪らしい自然な流れと言えるでしょう。
上方落語は様々につじつまを合わせて理屈をとおすのを旨としていますが、肝心なのは理屈の中身であり、庶民の心意気と洒落に説得力を持たせて話をつらぬく精神になっています。東京の落語には洒落の言葉や笑いは移せても、「貧乏花見」での「先の生でええことしはったさかい、今はええ夢を見てるのや」や、「心まで貧乏すなよ。気で気を養うということを知れ」という台詞に見られるような、また、えげえつないほどの貧乏ぶりを描きながらカラッと笑い飛ばすような大阪人らしい気質は移せなかったのではないでしょうか。
○六代目三遊亭円生「らくだ」・六代目笑福亭松鶴「らくだ」の聞き比べ
明治末期に東京に移されて人気高い落語ですが、東京のものはどこか灰汁抜きされたようでもあり、面白さの質が少し違うように思います。東西ともに展開は同じで、「らくだ」とあだ名される男が死んで、兄貴分の男が紙くず屋の男を巻き込んで通夜の真似事をするという噺です。
聞き比べると、全然違う雰囲気なのがわかります。円生さんのほうは、気迫と陰影が語りにこもって引き込み、一人芝居のような緻密な名人ぶりを再確認します。松鶴さんのほうはドスの効いた凄みがあり、男らの生々しい息遣いを感じさせながら、泥臭いほどの裏長屋の雰囲気を漂わせて、これぞ大阪のにおい、という空気感を醸しています。昔風の大阪言葉には放埓な熱気を映しこんで迫ってきます。また、落語にでてくる「どぶさる(=寝る)」や「ごねる(=死んでいる)」といったような古い荒っぽい大阪弁も、人の死の悲しさを吹き消す勢いがあるように思います。
伝わる質感が違い、また、東京版は全体に男らの心の機微や、どぎついリアルな描写は省かれ、ヤマ場の酔った紙くず屋と兄貴分との立場が逆転する場面の滑稽味を強調しているように思います。
このように、大阪の落語は人間の業にもう一歩ふみこんで、赤裸々な人の姿を実感でおもしろく描こうとしている。作り話ですが、描き方にうそがなく、きれいごとで済まさない。そうして、人の真実や本音を代弁することで共感を呼んで笑わせるという面がより強いように思います。
また、大阪の言葉自体が皮膚感覚に近い言語で、「疲れた」よりも「しんどい」のほうがより気持ちや状態が伝わるというところがあります。大阪の人が大阪の言葉を生んだわけですが、逆に、大阪の言葉が大阪人とその気質を育てていったのではないかなと思います。大阪の言葉だから、上方落語独特の描写と笑いが形作られていったのではないでしょうか。
織田作之助が上方落語を評して「大阪人のもつ現実凝視の鋭い眼がある」「たくましい現実謳歌のリズムを感じる」と書いたように、
人の真実を生き生きとすくい取った描写と、実感とユーモアを伴う大阪言葉の語りが上方落語の笑いの背骨と言えるのかもしれません。
■大阪のアホと女性
上方落語には間の抜けたアホな役割で、さまざまな落語に登場する「喜六」という登場人物がいます。 喜六という男は上方落語の笑いを象徴する存在ですが、一方、東京の落語には「与太郎」というバカが登場します。この男は一貫したもの知らずで、世間や常識とずれたことばかり言う、ほんわかした存在です。その与太郎に対して、喜六は同じもの知らずでもまったく違っていて生活力や欲もあるし、計算もするし、理屈もいう。いたずらや悪さもしますが、ドジなので必ずといっていいほど失敗します。キャラとしてはお調子ものでいちびり、粗忽で浅はかで間抜けで、能天気で無邪気な子どものような愛すべき存在です。つまり、大阪でいう「アホ」の要素を全部備えた、アホ代表のような憎めない存在と言えます。
関西人は喜六に自分とどこか重なる部分を感じながら、または身近にこんなやつがいるとほほえましく感じながらおかしさを共有して笑うのではないでしょうか。
一方、アホと同様に、上方落語の特徴的な存在が「かみさん」です。「船弁慶」に登場する「雷のお松」という妻女にみられるように、亭主を尻に敷く「かみさん」は大阪人のエネルギッシュな明るさを象徴しているような存在です。
落語というのは全体に女の人を貶めないというのが暗黙のルールとしてあります。昔は今より男尊女卑がまかり通っていた時代ですが、落語には、「夫にかしずき、家と家族を守るために懸命に尽くし耐え抜く、寡黙な妻の鑑」というのは一人もでてきません。また、男のアホはでてきますが、女のアホはでてきません。そういう風に描かれているのは、そうしないと共感も呼ばず、笑いにもならないからです。女は口数が多いですが、しっかりもので芯が強くて生活力がある。だから男は頭があがらない、というのが昔の落語家だけでなく、世の亭主が実感だったのだと思います。お松のような女性上位を絵に描いたような怖い「かみさん」の存在は、上方落語独特の笑いであり、これぐらい元気でいてほしいという男性たちが思うひとつの女性の理想像だったのかもしれません。
■落語に残る大阪のまちの歴史と暮らし
上方落語の古典の多くは大阪のさまざまな場所が舞台になっています。上方落語を聞いているうちにその土地の昔の風景が目に浮かびますし、歴史やくらしも知ることができて、上方の落語は昔の大阪を記憶するタイムカプセルのようにも思います。
落語の中で大阪のまちがどのように描かれたのかみていきましょう。
「らくだ」の裏長屋がある場所は野漠(のばく)と言われ、今の谷町六丁目付近、空堀より北のあたりと言われています。また話の終盤にらくだの遺体を火葬するために運んでいく道順は、今もちゃんと辿れるようになっていまして、行き着く先は千日前の火屋(火葬場)。千日前は今ではやかましいほどの繁華街ですが、明治の初めまでは刑場と墓地があり、焼き場もありました。千日前はそういう場所だったということを教えてくれています。
「船弁慶」の終盤には難波橋がでてきますが、ここは昔、真夏には庶民が繰り出し川風を楽しんだ夕涼みの名所でありました。「遊山船」という噺にもあるように、大阪が水の都であるということを改めて感じさせてくれます。
また、上方落語の代表的な舞台になるのは船場。船場は「百年目」や「千両みかん」、「立ち切れ線香」といった大作の舞台にもなっています。今はあのエリアを船場と呼ぶ人は少ないかもしれませんが、北は土佐堀川、南は長堀川、東西は東横堀と西横堀という4つの堀川に囲まれた区域を船場と呼んでいました。
戦災で消失するまでは、船場は商いと文化の両面で、大阪の要になった特別なまちでした。船場の中で商いをするというのは、大阪商人の中でステータスであり誇りであり、のれんを守ることを第一義とした。そんな船場というまちを上方落語は物語を通してわかりやすく描いています。代表的な噺は「百年目」ですが、ほかにも船場商家を扱った落語には、大阪商人の矜持や気風、商人が重んじた行儀、礼儀、しきたり、始末の精神、主従の関係や丁稚の食事などが生活感たっぷりに描かれています。今では現実に知ることができない商家の暮らし向きや気風まで語り継いでいて、上方落語にとって船場は最高のひのき舞台であり続けるのだ思います。
また、もうひとつよくでてくるのが、上町台地の寺社仏閣です。谷町九丁目から四天王寺前夕陽丘、天王寺あたりは古い歴史があるせいか、多くの噺の舞台になっています。
「高津の富」という噺は江戸時代に高津宮で実際に富くじがあったことを伝えてくれていますし、「蛸坊主」という落語には生國魂神社に池があったことを教えてくれます。四天王寺は多くの噺に出てきまして、なかでも代表的な「天王寺詣り」は四天王寺の彼岸風景を詳しく描きながら供養して救済される人の心も伝えています。ほかにも落語の舞台として、瀬戸物町や阿弥陀池、芝居町として栄えた道頓堀など、数え切れないくらい大阪のさまざまな場所が描かれており、その「場」が重要な要素にもなっています。
落語の中の大阪は、活気と魅力に溢れていますし、愛おしい、いじらしい人たちがたくさんでてきます。それは落語の中の架空の大阪かもしれませんが、古きよき大阪とそこに生きた人々を記憶しているのだと思います。ぞして、落語に描かれたまちの魂や精神は今の大阪にも深く根付いているように思います。
古典落語だけでなく、新作もいまの大阪を描いたおもしろいものがたくさんあります。また寄席で聞いていただければと思いますし、落語をきっかけにして大阪を再発見していただければうれしく思います。
(※講演で使用した音源=五代目柳家小さん「長屋の花見」、桂米朝「貧乏花見」、六代目三遊亭円生「らくだ」、六代目笑福亭松鶴「らくだ」、桂ざこば「しり餅」、三代目桂春団治「祝のし」、五代目桂文枝「船弁慶」、桂米朝「まめだ」)
●アンケートより
・解説をはさんで録音の聞き比べという構成が非常に良かったです。落語は江戸(東京)と思い込んでいた先入観が一変しました。
・大阪の芸能の歴史を落語を通してよく理解できた。
・落語からいろんな学びがあり今の社会は殺伐とした世になってきたように思います。もっと落語を聴いて昔のほのぼのとした気持ちを取り戻したい。
などの感想がありました。